ミステリアスなタイトルが付けられた、さまざまな雑誌で撮影を手がけるフランス人フォトグラファー、ヴァンサン・フェラーネによる写真集『MILKY WAY』。本作は彼の妻が赤ん坊に授乳するシーンの写真を中心に、母子を取り巻く日常の出来事を撮影した写真によって構成されている。女性の権利について論じられる機会も多い今日において、彼の写真はどんな意味を持つのだろうか。写真に込められた視線の意味を、自身も一児の母であり、経産婦としての経験も持つ写真研究家の小林美香が読み解いていく。
レビュワー=小林美香(写真研究者/東京国立近代美術館客員研究員)
企画=twelvebooks
『Milky Way』は、フランスの写真家ヴァンサン・フェラーネ(Vincent Ferrané, 1974-)が赤ん坊に授乳をする妻をとらえた写真により構成されている。天の川(銀河)を意味する「Milky Way」の語源は、ギリシア神話(主神ゼウスの妻ヘラの乳を、アルクメネとゼウスとの間に生まれたヘラクレスが吸い、溢れたヘラの乳が天の川になった)に由来しており、写真にとらえられた乳頭から母乳が吹き出る様子や、母乳で風呂のお湯が白く濁る状態は視覚的にも「Milky Way」と直接結びついている(裏表紙には、乳頭と射乳の輪郭が線描で描かれている)。撮影期間は、出産直後に始まり赤ん坊がほぼ母乳(あるいはミルク、およびその混合)のみで栄養を摂取する生後6、7カ月ぐらいまでと思われ、写真のほとんどが自宅の室内と思しき空間で撮影されている。授乳する場面をとらえた写真のシークエンスの狭間に戸外の風景の写真が差し挟まれ、徐々に赤ん坊が育ち、季節が冬から春へと移り変わっていく過程が示されている。
家の中で授乳をする場所は、ベッドの上や、リビングルームのソファ、ダイニングの椅子などいくつかに固定されてくるが、フェラーネは授乳する妻と赤ん坊を少し離れた視点からとらえて、それぞれの空間で二人の体がどのよう見えるのか、その姿を周辺の環境との関係の中に描き出している。撮影に際してストロボを用いているため、どの写真の画面も平坦で明るく、陰影や暗さを排している。また、哺乳瓶や搾乳器、乳首のクローズアップや、授乳をしながらの搾乳、赤ん坊の吐瀉物を拭うなどの動作を間近に捉えた写真も挟まれ、授乳が日常的な事物との関係の中で即物的に捉えられている。
ベッドで授乳する場面をとらえた写真は、同じ視点からとらえられたものが多く、写真集を通して頻繁に登場する。寝ているのか起きているのか分からない朦朧とした状態で授乳をする妻の所作や表情は、頻回授乳(2、3時間間隔の授乳)が続く時期の過酷な状況を物語っている。また、妻が赤ん坊に視線を注ぐのではなく別の方向を見ていたり、電話をかけるなど授乳以外のことに注意を奪われていたりするような場面も多く、授乳を母子が睦み合う時間として描きつつ、日常生活の営みのひとつとして淡々ととらえている。ダイニングテーブルで椅子に腰掛け、腕を交差させて仰向きになり、着ているシャツの前を捲り上げて乳房をはだけている様子をとらえた写真は、授乳後の疲れ切ったタイミングで撮られたものであろう。自分が撮られていることも、また半裸の状態であることすらも全く意識していない状態を伺わせる。
一連の授乳の場面をとらえた写真が読者にもたらす反応は、性別や出産・育児経験の有無によって大きく異なってくるのではないだろうか。男性(ヘテロセクシュアルで、とくに妊娠・出産・育児の当事者が周囲にいない状態の人)であれば、性的な対象として女性の体を見る視線を持ちながら、授乳する女性の体、乳房を目の前にして、そのような対象として見られない、見るべきではないという心理も働き、戸惑いを感じるかもしれない。ちなみに筆者である私は経産婦でおよそ一年間の授乳を経験しており、その期間に味わった身体感覚や疲労感を振り返ることなしにこれらの写真を見ることはできない。妊娠、出産、授乳期間は、自分の身体機能への認識を大きく変える経験だった。
授乳のあり方は、経産婦によって異なる(ミルク(人工乳)のみで育てるケースも多い)ので、あくまでも私個人の経験に照らしあわせることになるが、自分の体から赤ん坊が生命を維持し、成長するための栄養源が分泌されているということは、自分が人間である以前に哺乳類であることをまざまざと思い知らせた。母乳の分泌量が最も多かった時期には一日一リットルは分泌していた(搾乳器を使って計測した結果)ため、その時期は一リットルの牛乳パックに対する見方が変わった記憶がある。頻繁に授乳する時期、とくに蒸し暑い夏には、衣服や下着で乳房を覆うのも煩わしく感じ、乳房は隠すべきという社会規範に則るものの、人の視線に晒されない空間では裸族のような生活をしたいものだとさえ感じていた。
一時的とはいえ、日常生活のルーティンに授乳が組み込まれ、乳房が赤ん坊の栄養供給源としての機能を果たすものになることで、乳房が性的な対象として見られるという社会規範が、意識の中では後景に退くということは、授乳経験者・当事者にとっては身に覚えのあることではないだろうか。また授乳する女性が身近に接する人、とくに赤ん坊の父親にあたるパートナーの乳房に対する認識の仕方も変わる。性的な対象でもある乳房が、授乳という機能を果たす様子を、育児に携わりつつ距離を置いて眺めることは、赤ん坊とその母親である妻との関係が徐々に変化していくことを確認することでもあるのかもしれない。
フェラーネが授乳する妻をとらえた写真を、家族写真の一部として私的な領域にとどめておくのではなく、写真集という形で作品として公表するにいたった背景についても考える必要があるだろう。
ひとつには、近年欧米を中心に公共空間で授乳のために胸を露わにすることが猥褻な行為としてタブー視される状況に対し、女性の権利、ヘルスケアの観点から公共空間で授乳する権利を主張するためのさまざまな活動が展開しているということがある。実際に、授乳中の母親たちがデモを行ったり、2014年にはFacebookで投稿された授乳する女性の写真をめぐって、その写真が公表されることの是非を巡る議論が起きたりもしている(Facebookは、授乳の写真の投稿を禁じていないが、ほかのFacebookメンバーから不適切として指摘があった場合、画像の削除、及びアカウント凍結の対象になる)。授乳は自然な行為なので、隠す必要はないと主張する運動の展開は、日本国内での状況(日本では授乳服を着用したり、授乳ケープで隠したりするのが周囲への一般的な配慮と見なされている)に照らし合わせるとさほど認知されていないが、Instagram上では、「#breastfeedingisbeautiful(授乳は美しい)」「#normalizebreastfeeding(授乳を当たり前のことにしよう)」といったハッシュタグをつけた授乳中の自撮りの写真が数多く投稿され、ファッションモデルや女優のような著名人も授乳中の写真を公開して話題を呼んでいる。(一連の展開については、拙稿「母さん目線の写真史」 第23回をお読み頂きたい。)
また、このような運動の流れとも関連して、授乳期の記念写真として「授乳写真」と呼ばれるジャンルも形成されている。代表的な例として、自身も二児の母親であるというイヴェット・イヴェンス(Ivette Ivens, 1990-)の作品を挙げることができるだろう。彼女は、さまざまな母子をモデルに念入りに演出を施して「美しい授乳写真」を撮影し、写真集“Breastfeeding Goddess(授乳する女神)”(2015)を発表している。彼女の撮る授乳写真は、西洋の古典絵画の中で脈々と描かれてきた聖母子像を連想させるものが多く、現実の育児の場面とはかけ離れたファンタジーとして過剰に作り込まれているようにも思われる。
ヴァンサン・フェレーヌの作品も、授乳する母親の姿を社会の中で可視化する流れの中に位置づけられるのだが、授乳当事者ではない男性としての距離の置き方や、イヴェット・イヴェンスの授乳写真のような、美しい母子像を作り込むような写真ではなく、あくまでも生活の場面のなかに即物的に妻と赤ん坊をとらえる姿勢が彼の作品を特徴づけている。彼のインスタグラムのアカウントには、パリの書店Yvon Lambertに設置された本作品のプリントを撮った写真が投稿されている。大型のプリント作品として誂えられることで、その即物的なとらえ方がより際立っている。乳房と乳頭から放たれる母乳の軌跡は、乳房を性的な対象としてとらえる視線も、母性を象徴するものとして意味づける視線の両方を含みつつ、それらを跳ね返す強力なインパクトを具えてはいないだろうか。
タイトル | |
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出版社 | LIBRARYMAN |
価格 | 7,000円+tax |
発行年 | 2017年 |
仕様 | ハードカバー/215mm×275mm/64ページ |
備考 | https://twelve-books.com/products/milky-way-by-vincent-ferrane |
ヴァンサン・フェラーネ|Vincent Ferrané
1974年クレテイユ生まれ。科学分野を学んだのち、2004年よりフォトグラファーとして活動を始める。現在はパリを拠点として活動し、フォトグラファープロダクション「Modds」に所属しながら、ポートレイトや広告、また『Les Inrockuptibles』、『élérama』、『ELLE』、『Grazia』、『Vanity Fair』などフランス内や国際的に展開されている雑誌での撮影を手がける。また、並行して個人の作品も制作しており、実在する出来事を繊細かつ象徴的な表現で写しだす。過去にはフォトグラムを用いて制作した映像作品『Bienvenue』を制作、2015年のアルル国際フォトフェスティバル中に個展を開催した。
小林 美香|Mika Kobayashi
写真研究者。国内外の各種学校/機関で写真に関するレクチャー、ワークショップ、展覧会を企画、雑誌に寄稿。2007~2008年にAsian Cultural Councilの招聘、およびPatterson Fellowとしてアメリカに滞在し、国際写真センター(ICP)およびサンフランシスコ近代美術館で日本の写真を紹介する展覧会/研究活動に従事。2010年より東京国立近代美術館客員研究員、2014年から東京工芸大学非常勤講師を務める。
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。