黒い2匹の蝶
3月は友人の誕生日が多いから、朝目が覚めるときょうは何日だっけ、誕生日の人いたかな、と確認することがよくある。6日は高校時代の友人の誕生日だったからメールをして近況を報告したりした。その翌日はスタジオに勤めていたときの同僚だった友人の誕生日だから、毎年続けておめでとうとメールを送っていたのだが、今年はもう送れない。
一昨年の彼女の誕生日が最後だった。そのときは毎年そうであったように、短い文章を何度か交わして、また近いうちに自宅に遊びに来てね、と書いた。それに対する返事はなく、ひと月後の自分の誕生日に彼女からのお祝いのメッセージが届き、「あなたが幸せな家庭をもててよかった」と書かれてあったのが最後の言葉だった。
昨年の夏、アイスランドに滞在中に彼女から電話があった。夜中に電話が鳴っていたようで、朝起きて着信があったことに気がついた。普段はメールで連絡をとっていたから、なにか急用なのかなと気になったが、午前中のフライトで帰国するために荷造りやレンタカーの返却などで慌ただしくしていて、しばらく電話があったことを思い出さなかった。チェックインを無事に済ませて落ち着いたら電話のことが気になった。かけ直したがつながらなかったから、なにかあったのかな、大丈夫かな、とメールしておいた。長い付き合いのなか、メールが世の中に普及してからは彼女から電話がかかってきたことがほとんど思い出せなかった。これはもしかしたら彼女からの電話じゃないのかもしれない、という考えが浮かぶ。そう思うと気が沈んだ。成田に到着してすぐに携帯をチェックすると彼女の弟さんから返信が来ていた。電話でお伝えしたかったのですが、姉が亡くなった、と書いてあった。長いフライトのあいだ中ずっと嫌な予感がしていたから、やっぱり、と思いながらも、もう会えないという事実を受け入れ難く、空港内を歩きながら、だらだらと泣いた。
闘病していたことは知らなかった。最後に会ったのも一年以上前で、最後のメールのやりとりは数カ月前のお互いの誕生日だ。その時本人は体調の異変に気がついていたようだが、重症化していることにどこまで本人が気づいていたのかは、ご家族にもわからないそうだ。ただ、部屋のなかにたくさんの健康食品が残っていたことから、自分なりに病気を治したいと思っていたのではないかということだった。
東京に引っ越してきて初めてできた友人だった。ほとんど友人も知人もいなくて、心細かった頃、当時の勤め先のスタジオに、自分より数カ月前に入社していた3つ年上の彼女には随分助けられた。前職は大病院の重病者病棟に看護師として勤めていた、というスタジオマンのなかでは異色の経歴の持ち主だった。毎日人が死んでいくのを目の当たりにして、物を生み出す仕事がしたくなったから、とスタジオに入社した動機を教えてくれた。写真の仕事は初心者なのに、なぜか肝が座ったようなところがある人だったから、それを聞いて腑に落ちた。そしてたくさんの死と向き合った彼女のことを尊敬した。
その後自分がフリーランスになってからのある時期をずっと支えてくれた。アシスタントとして撮影についてきてくれて、一緒に色々な場所に行ったりした。仕事を始めたばかりで経験も少なく、撮影現場ではいつも緊張していたが、彼女が後ろでいつも見ていてくれたことが随分心強かった。りんちゃんにしか、アシスタントなんてもうしないよ、と言ってくれたことに甘えて、しょっちゅうついてきてもらった。あの時間を共に思い出として語れるのは彼女しかいない、その事実に足元がぐらぐらと揺れるような感じがして、自分の過去もそこだけぽっかり抜けてしまったような気がした。
出会ってから25年以上経つなか、だんだんと会う回数も減っていき、ここ数年は年に一度会うくらいになっていた。それでも長い付き合いの途中、そういう時期もあるし、また子育てが落ち着いたらゆっくりとふたりで旅行とかしたいな、と思っていた。
彼女はそう思っていたかどうかわからない。そう思っていなかったかもしれないし、同じようにまた会えるようになったらいいと思っていたかもしれない。
とても繊細な人だった。それは外見にも表れていて、少し色素の薄い目と髪の色をしていていつもふわふわと漂うように歩いていた。ふとした隙に飛んでしまいそうなくらいに儚く感じる存在だった。いくら食べても太れないのよね、と細い身体に少し不釣り合いな革靴や大きめの腕時計をよくしていたのは、生きにくい現実世界の中での彼女にとっての錘のような、お守りのようなものだったかもしれない。
思えば長い付き合いのあいだ、ほとんど自分からしか会おうと誘ったことがなかった。それでも毎回会うと、ずっとりんちゃんに会いたかったんだよね、と言ってくれたから、たまにはそっちからも誘ってよね、と半分本気で、半分冗談ぽく言ったこともあったが、ふふ、と笑うだけだった。いま思えばわたしが忙しいと思って遠慮してくれていたこともあったのだろう、子供ができてからは特にそうだったかもしれない。
新居にも遊びに来てねと何度も誘ったがついに来てくれないままだった。
お葬式はご家族だけですませられたと弟さんからのメールで知ったから、後日ご焼香をあげさせてもらいにご実家に伺った。遺影は自分が一番長いあいだ一緒にいた頃の彼女だった。それを見てふたりで過ごした時間を濃く思い出し、しばらく信じ難かった彼女の死と向かい合えたような気がした。そして闘病中の彼女になにもできなかったことを申し訳なく思い、ごめんね、と言ってから、それだけでなく彼女にもらったたくさんのものを自分はなにも返せなかったと気がついた。そして若かった頃の自分の傲慢な発言で彼女を傷つけたこともあったんじゃないだろうか、と思うと、ただ頭を垂れて詫びる言葉しか出てこなかった。
彼女のおかあさんに話を伺うと、最期の日、窓際に大きな黒い蝶が二匹ひらひらと飛んできたそうだ。それを見て先に亡くなっていた彼女のお姉さんが迎えにきたと悟ったそうだ。お姉さんが亡くなった日も大きな蝶が飛んできたらしい。それを聞いて20年前に出版した自分の最初の写真集の1ページ目が黒い蝶が二匹飛んでいる写真だったことを思い出した。
彼岸と此岸の境目のような写真だなと思い、それを最初のページに選んだのだ。時間軸が歪んで向こう側と一瞬繋がったような気がした。
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