文・選曲=菊地成孔
沖縄県生まれの石川竜一(37歳)は、当然、「なかみ」という言葉を知っているはずである。沖縄そばに豚の内臓の塩茹でを乗せたものを「なかみそば」という。「なかみ」とは「中身」であり、ストレートに「内臓」を指す。
屠畜、ないし屠畜業自体が世界中で一種のタブーを含んでしまっているのは歴史的前提として、だからこそ、ありとあらゆる表現形態で、アートは「命」に対して、「内臓」を素材に表現してきたが、筆者はシンプルに、「内臓」に対する最も優れた表現は、この「なかみ」という、沖縄県での一般語である。生活言語といっても良い。
沖縄は特に豚肉とその内臓の消費量がわが国で飛び抜けて高く、そこにタブーが不可避的にもつ後ろめたさや過度な挑発性はない。モツ炒めは「なかみ炒め」である。豚を殺し、その「中身」を炒めるのである。パワフルで生活感にあふれ、豚を殺し、その筋肉を衣揚げにした料理を「とんかつ」と呼ぶ時の、あの清々しさと楽しさは同列のものであろう。
『いのちのうちがわ』は、「なかみ」という一般語を幼少期から知っていたであろう石川による、かなり現代的で、問題提起的な、つまり、アートとして厳粛に、かつ、挑発的に、かつ、一般的な汎用性を持たせた「訳語」といえる。
2015年から山に入り、法的に許容された範囲(それでもその範囲は、驚くべきほど広い)の狩猟可能な野生動物をパートナーである猟師と狩猟し、解体し、血抜きをして、雪原や岩の上等々、自然環境の中に置いて撮影してから食している。
筆者は実家が飲食業で、肉の業者、内臓の業者ともに(両者は別の業者であり、例えば焼肉店は、筋肉の仕入れはイマイチだが、今日は内臓の仕入れが良い。といった事態も起こり得る)出入りがあったので、「精肉」の対語としての「精臓」された牛や豚の内臓を幼少期から見慣れており(本論と無関係なので詳述はしないが、マグロやアンコウ、ウナギなど、水産物にも同様のレベルのことが起こる)、かつて家人だった女性の実家が農業と畜産の兼業者だったので、陸鳥と水鳥までだったら解体できる。要するに、多くの人々よりは、いくらか「内臓」が図像として持つメッセージに対しての麻痺もしくは免疫とも呼べる状態にある。
しかし、だからこそ、とも言うべきか、『いのちのうちがわ』に込められた、多くの人々に神学上の難問を突きつけるようなシリアスな迫力と、実際に改めて見てみると、非常にカラフルで、飛び抜けたグロテスクを感じざるを得ない「内臓」と言う対象の訴求力に言葉を失う。写真集としての特殊パッケージのあり方も、最高級の海苔や昆布が、1枚ずつ和紙で包まれ、桐の小箱に入っているような、「本気度」に満ちている。
そこにあるのは「内臓=中身は、非常にグロテスクで、かつ非常に美しく、自然への畏敬と生命への肯定力に満ち満ちている。見慣れてくると、カワイくさえ見えてくる」という、個人が死によって個人の生を獲得する、シンプルで凝集的なベクトルのメッセージである。人によっては、ストレートに「旨そう」と思うものもいる筈だ。石川は「内臓は、エロティークで、実際に食べてみると、生命力が漲るのを感じた」と書いている。
英国はブリストル生まれのダミアン・ハースト(56歳)は、長きに渡って「最も稼いだ現代美術家」と言う称号を保持したが、代表作であり、ブレイクスルー作である『A Thousand Years(1991)』(※ガラスケースに断首した牛の頭部と夥しい蝿を陳列。腐敗の過程と蝿の発育と死を同時に見せる)や『Mother and Child David(1993)』(※縦真っ二つに切断した親牛と仔牛をホルムアルデヒドで保存)が放つメッセージは、石川の自然信仰的なそれとは正反対で、非常にコンセプチュアルであり、人類にとっての、個人の死と、屠殺や屠畜が孕むタブー性の露悪、つまり、死によって、あらゆる死を、あらゆる観念連合の乱反射の中に投げ出すスキャンダリズムで、デカダンやニヒリズムが外景化している。ストレートに「旨そう」と思う鑑賞者はおそらく皆無だ。
ハーストから30年後に、同じ内臓を使い(石川の作品の中にも、内臓の周囲に、自然に集まったアリの群れを共に写しこんでいる写真もある)、言わば、同じ「グロテスク」が意味するものとして、正反対の表現が出てきたことは、歴史的、社会的な流れ上、必然のようですらある。自由経済によって発生したデカダンも、同じく自由経済によって発生したエコロジーも、解釈を全く拒まない平明さがある。
ただ、『いのちのうちがわ』では、その山林や川辺の巨岩等々の写真も挟み込まれており、石川は「内臓と自然の風景が同じものに見えてきた(大意)」とするが、筆者はこのポイントだけには賛成しない。内臓と巨岩にフラクタル構造も生じていないし、岩や雪原は『いのちのうちがわ』に秘匿的に保管されているものではない。なので、今回は、音楽とのペアリングに於いて、対象とするのは内臓の写真に限る。
石川の真摯で挑発的なメッセージに併走する形で、極めてシンプルに言えば、『いのちのうちがわ』に音楽は必要ない。厳密に言えば、撮影場所である自然界が起こすあらゆる音響、本作の宣伝動画のような、美術館のような遮音環境で、作品の封が切られ、見開き2枚綴りになっている各ページを、ゆっくり開き、閉じ、また開く、幽けき紙の音、等々、「エコロジカルな音響」こそがこの作品に与される、最適なものであろう。何らかの快楽のために計画され、録音され、再生されるあらゆる「商品としての音楽」は、作曲家や演奏家の意思や主義主張を遥かに超えて、反エコロジー側の産物である。「癒しのために、世界遺産的な環境で録音された環境音CD」でさえ、構造的には自然環境の微弱な破壊であり、商品価値への熟知が前提とされている。
「では、石川のこの写真も同じではないか?」という反駁が生じるだろうが、筆者はギリギリで違うと断ずる。石川は、「これを誰が欲望しているか?」「発表したら、市場がどう受け取るか?」といった市場価値という値踏みを、少なくとも「大いに」はしていないと筆者は思う。冒頭に戻るが、幼少期から親しんだであろう「なかみ」という素晴らしい言語文化の産物を『いのちのうちがわ』と言い換えた、その意図にのみ、「現代の、多くの人々に訴求しやすいように」という意思を感じるが、それは、琉球の言語が抱える過度なエキゾチック効果を排するための、最低限にして最良のホスピタリティであると思う。
つまり、エコロジーか反エコロジーか?という、際どい問題に対し、石川は「狩猟法を遵守しています」とか、「写真の内臓は全て美味しくいただきました」とかいうコンプラパスのための綺麗事ではなく、まず言語感覚によって突破しており、写真自体の雄弁さ、その意義を保証しているといえるだろう。
かくして、音楽のペアリングは連載4回目にして最も困難を極めた。当連載は、ペアリングによる写真集と音楽の両者が、一度その意味を完全に放棄した上で、全く新たな意味を持ち、高め合う事が目的である。筆者がコインを置いたのは、ライトサイドのグロテスクが、最初は観るものを真摯さのパワーで満たしてしまった後に、サステインとして、「奇妙なカワイさ」「セクシーでユーモラスである」という健康的な生命肯定の効果が生じる事である。不謹慎さが極限値まで禁圧されているこの社会では、こうした美学的な追求行為自体が眉を顰め易い事は理解に窮しないが、これまでの文化は、少なくとも骨格=骨の図象にまではこの効果を認めている。「カワイイ骨のイラストやキャラクター」は街に満ちている。このイズムは、「内臓まではあと一歩だ」ということさえできる。
ディスコ音楽は、最も生命力の躍動に満ちたジャンルで、文字通り、内臓と骨格と脳の連動をもたらし、その全ての忘却とともに、代謝や消化といった生命活動を活発化させる。マイケル・ジャクソン在籍時のヒットチューン、ディスコ音楽の黄金が、「カワイイ内臓」を踊らせる効果と、若き写真家の真摯さが、音楽に同化して踊っている人体の熱狂の中に、「生命の駆動装置」を意識化させる(踊っている者は、職業的なダンサーを除けば、人体工学について忘却しているか、あるいは知らない)効果、この双方向性と、そこからスピンオフして立ち現れる、ペアリングした当人である筆者の想像も超えた、夥しいイマジネーションの発生を、この窮屈な時代の中で掴んでいただければ幸いである。選曲には非常に時間を弄したが、ペアリングした時の達成感は、一瞬にして確実なものだった。
タイトル | |
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出版社 | 赤々舎 |
出版年 | 2021年 |
価格 | 14,300円 |
仕様 | ポートフォリオ形式/340mm×340mm/51ページ |
URL |
菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家・文筆家・大学講師。音楽家としては作曲、アレンジ、バンドリーダー、プロデュースをこなすサキソフォン奏者、シンガー、キーボーディスト、ラッパーであり、文筆家としてはエッセイストであり音楽、映画、モード、格闘技などの文化批評を執筆。ラジオパースナリティやDJ、テレビ番組等々出演多数。2013年、個人事務所株式会社ビュロー菊地を設立。著書に『次の東京オリンピックが来てしまう前に』『東京大学のアルバート・アイラー』『服は何故音楽を必要とするのか?』など。