初期から一貫してスナップ写真のスタイルを続けてきた草野庸子。第37回キヤノン写真新世紀優秀賞(佐内正史選)を受賞し、その後も精力的に活動を続け、「LUMIX MEETS BEYOND 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS #6」では、写真集『EVERYTHING IS TEMPORARY』から出展した。そんな彼女の写真からは、どこか共通する感覚――「死」への眼差しがあるように思える。身近なシーンや同世代の若者のあり様をとらえながらも、イメージの中に存在する時間的・空間的な隔たり、あるいは、その先にあるものについて聞いてみた。
インタヴュー・構成=酒井瑛作
写真=ダスティン・ティエリー
―今回の展示の作品「EVERYTHING IS TEMPORARY」は昨年、写真集として出版され、個展も開催されました。実際に写真集を作ってみてどうでしたか?
そこに至るまでですが、在学中にキヤノン写真新世紀で優秀賞をいただいて卒業した後、自費出版の写真集『UNTITLED』を出しているんです。でも、そのときは写真でやっていくということを私自身よくわかっていなかったし、ふわふわしていましたね。その後の一年半くらいは、学校を卒業し、写真の仕事が入るようになったこともあって、全然知らないところに行ったり、よく会う人も変わっていったりして。
一方で仕事をしながら、普段から写真は撮り溜めていたので、どうにか形にしたいけれど、取っ掛かりもなく二年くらいが経っていました。そんな中、良い巡り合わせがあって『EVERYTHING IS TEMPORARY』を出版することになったんです。ちゃんと版元がある形で出すのははじめてのことだったので、私の認識としてはこれが1冊目の写真集かなと思っています。
―タイトルがユニークですよね。
ありがとうございます。こんなふうにいい切りのようなタイトルは、あのタイミングじゃないと出せなかったかもしれないです(笑)。
―勢いみたいなところもあった?
ありましたね。すごく精神的に不安定だった部分もあると思うんですけど。
―このタイトルはどういう経緯で決まったんですか?
いつもタイトルとステートメントを決めるのが一番悩むのですが、今回のタイトルは先に決まっていました。私の写真は「瞬間を切り取る」「刹那を切り取る」といっていただくことが多いのですが、そもそも個人が何を見ているのかということ自体、一瞬一瞬の積み重ねでしかなくて。その中で写真を撮ることは意識的に瞬きさせていることだと思っていて。そんなふうに瞬きを繰り返して、朝起きて、夜寝て……と続けていくことは、本当に一時的なことの繰り返しだなと。
―草野さんの写真は「瞬間を切り取る」や「ユースを写す」といった説明をされる一方で、何かが終わった後のような写真や少し枯れている花を写した写真も印象的です。「瞬間」とは真逆の「死」に近いものを感じるのですが、草野にとってそれぞれどうとらえていますか?
「瞬間を切り取る」ということは、いわれてそうかもしれないと思っていたのですが、同時に全部が瞬間だと思っているから、そこだけを切り取っているという意識はあんまりなくて。紙芝居みたいにゆっくり一枚一枚がパタパタと倒れていく感覚に近いのかなと思っています。
―紙芝居は、時間の流れということですか?
そうですね。普通の日々の中ではもっと早く流れていますよね。早いコマ割りのような写真であれば、動きのある写真になるのですが、私の場合はすごく明るいエネルギーのある写真というわけでもないじゃないですか。人が動いているけど、エネルギーは感じないよなと自分でも思っていて。例えば、ごはんを撮っても、本当に美味しくなさそうって思います(笑)。流れを俯瞰で見ているような感じなので、速さの中にあるエネルギーが出ないんだろうなと。
―いま、もっとも「瞬間」を表す写真ってiPhoneで撮影して、「ここにいるよ」とか「これ」と指差すために使われているようなものだと思うんです。そう考えると、草野さんの写真は、「いまこの瞬間」なのか?という気もします。
その話を聞いて思ったのは、私もiPhoneとかで「ここだよ」とか友達との写真を送ったりして、情報が入っている画像として、ツールとして使うことはあります。フィルムの場合は、撮って一応ネガには写っているけど、撮った今から液体に浸けて現像が上がるまでに1時間でも2時間でもちょっとだけ間があるじゃないですか。それって撮ったときのいまという濃さが薄くなるのかなって。36枚撮らないと終わらないし。
―「EVERYTHING IS TEMPORARY」のステートメントで、「忘れることは死よりも遠く……」という一文がありますよね。その遠さってどういうことなんでしょう?
「死」ということでいえば、父親が亡くなったことがあるかもしれないです。ちょうど私が福島で3.11を経験したすぐ後の3月14日に突然父方の祖父から連絡が来て、癌で緊急搬送されたと。結局、交通が止まっているから死に目には立ち会えない状況でした。
昔から母親を通して父親の話を聞かされていていたのですが、3歳からは直接父親と会っていないからわからないんです。影みたいな存在として認識はしていたけど、死んだといわれても全然実感はなくて、悲しくもなかったんですけど。その後、おじいちゃんが遺品整理をして、父親と母親が出会った頃の写真が出てきて。ほとんど父親が撮っているから私と母親の写真がたくさん出てきて、それではじめて存在を感じたんです。
「LUMIX MEETS BEYOND 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS #6」アムステルダムでの展示風景(撮影:大谷臣史)
―そうだったんですね。
でも、だからこそもっと遠くなった気がして。本当にいたんだなと思うことによって、亡くなっている感覚も強まって、それが悲しいというか不思議というか。もうこの世には事実としていないし、いたっていうリアルな感覚はないのに、写真を見るとそこにいたんだなってことは認識できる。その感覚がすごくあって。
―仮に知らない人だったらそうはならないかもしれないけれど、父親という存在はもっとも近いものだと思います。でも、遠く感じたんですね。
そうですね。福島出身ということもあって震災を通して刹那的な部分を見て取ってもらうこともあるのですが、震災よりも父のことの方が大きいかもしれない。ただ、その時は写真が怖いなと思いました。写真の束が、念の塊のように思えて。私が笑って写っていて、カメラの向こうに父親がいるんだろうなって思うと……。
―撮る人の存在について意識することって実はあんまりないかもしれないけれど、近しい人だと気付けるのかもしれないですね。
その時くらいから写真をはじめて、『EVERYTHING IS TEMPORARY』を出すまで、やっぱり忘れることって死よりも遠いなという感覚が言葉になってきたんです。死っていうのは概念じゃないですけど、死という通過点が人間や生き物にたまたまあるだけで。そんなに遠くはないのかなって。たどり着くものって分かりきっているからこそ、遠くない。でも、忘れるって覚えていたはずなのに消えるってすごく怖い。
―「メメント・モリ(=死を忘れるな)」という言葉がありますが、「忘れることを忘れるな」ということでもありますよね。
そうですね。良い面もあると思いますが、忘れるってやっぱり一番遠いことだよなって。
―ステートメントでは、「未来はここにある」という言葉が続いています。それはどういうことですか?
細々といろんな写真を撮っていて、その撮っているという行為は、未来に進むことに近いなと思うんです。例えば、枯れかけの花を撮っているけれど、そのまま枯れて終わっていくことは分かる、みたいな。走っている人を撮ったとして、現実ではその先も走り続けていることは分かる。撮ってこのまま終わるってことはなかなかないじゃないですか。進んでいる中で撮っているから、それって未来を収めていることに近いのかなって。
―走り続けていることを確認するための写真ですね。草野さんの写真には、遠くにあるものへ目を向けるための、大きな時間軸のスケールがあるような気がします。次に作りたいものはありますか?
やっぱり父親に関するものは作りたいです。次になるかはまだわからないのですが、私にとって一番重いものをやらないとなと思ってます。写真というものを私が一番感じたきっかけでもあるから。
普段から身の回りの近くにあるものを撮っていますが、近いとはあんまり感じてなくて。たまたまそこに私がいて、カメラを持っていたタイミングが重なった状態になっているだけだと思っています。基本的に全部遠い。だから、ずっと誰もいない山とかにボールを投げている感覚があって、このままもっと遠くへ、分からないところまで行ってほしい、みたいな感覚があるんです。
草野庸子|Yoko Kusano
1993年、福島県生まれ。桑沢デザイン研究所でグラフィックデザインを専攻し、在学中にプライベートで撮りためて応募した写真で、2014年にキヤノン写真新世紀優秀賞(佐内正史選)に選出される。以後、写真家の道を歩み始め、現在ではファッションやカルチャー誌をはじめとする数々のメディアで活動している。2017年に、『EVERYTHING IS TEMPORARY(すべてが一時的なものです)』を刊行。2018年にRoshin Booksより写真集『Across the Sea』を刊行。
http://kusanoyoko.tumblr.com/
2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。