今年8回目を迎える「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」は、毎年京都の街を国際色豊かな写真で染め、日本における写真文化の普及において重要な役割を担ってきた。今年は新型コロナウイルスの影響で開催を春から秋へと変更を余儀なくされ、クラウドファンディングによる資金集めを行うなど、コロナ禍における写真フェスティバルの継続の仕方を模索してきた中、9月19日に無事開幕した。10作家が参加し、テーマを「VISON」と掲げ、新しい時代において写真の視座を見つめ直すKYOTOGRAPHIEの見所を紹介する。
文=若山満大
「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」は今年で8回目を迎えた。ルシール・レイボーズと仲西祐介、二人のアーティストが始めたフォトフェスティバルは、シャネル(CHANEL)やルイナール(Ruinart)、BMWなどのスポンサーがバックアップする一大プロジェクトとなった。自治体主催で開催される芸術祭が大多数の日本において、インディペンデントで尚且つ写真というジャンルに特化した本祭は希少であり、意義深い取り組みだといえる。今回のテーマは「VISION」。12作家の展覧会が、京都市内18ヶ所で展開された(アソシエイティッド・プログラムを含む)。フェスティバルの規模は例年に比べコンパクトになり、周遊しやすい印象があった。とはいえ、パーマネントスペース「DELTA」や公益財団法人京都市景観・まちづくりセンターと協働した町家保全プロジェクトの紹介など、新しい内容も充実していた。町家そのものを素材にしたマリアン・ティーウェンの大型インスタレーションや、甲斐扶佐義の約50年にわたる京都の記録と野外展示のようなサイトスペシフィックな企画も、京都という場と積極的に交信しようとする本祭のポリシーが伺えるものだった。
写真祭のステートメントに、次のような一節がある。
KYOTOGRAPHIE 2020では、多様な視点によって作られたさまざまな「VISION」を集めた。世界を変えるには、まず自分たちの「VISION」を変えなければならない。個人の「意識」の集合体こそがこの世界なのだから。一人一人が世界の問題を「他人ごと」でなく「自分ごと」として考えることができたとき、世界は必ず変わる。
ディレクターの力強い声明は、なるほど今だからこそ切実に響く感がある。コロナ禍以降、空間的な断絶は顕著となり、イデオロギーの対立(あるいはイデオロギーを持つ者と持たない者の対立)から起こる個人やコミュニティどうしの分断はとどまるところを知らない。しかし、共感や同情を理念として掲げれば、安易な左派ポピュリズムが蔓延する。そのような中で、一個人の内面における共感や同情(=「自分ごと」として考えること)は、いかにすれば可能か。本祭はこの問いに対する応答として、私たちに「VISION」を変えることを促す。その触媒となるのは、他ならぬアーティストの「VISION」である。
本稿は、KYOTOGRAPHIE 2020に通奏低音として響く「見ること/見えること」を念頭に起きつつ、いくつかの作品を取り上げながら本祭を解釈するものである。また同時に「見えないこと」にも反省的になりながら、有り得べき「VISION」について私見を述べる。
変化の記録としてのセルフポートレイト
嶋臺ギャラリーを使った片山真理の「home again」は、初期作から最新作まで様々なシリーズが並ぶ、およそ10年のレトロスペクティブとなった。彼女が初期から一貫してやろうとしていることは、端的にいえば、自分を撮りながら社会を表現するということである。彼女にとってセルフポートレイトとは、自分自身をメディウムとして、自分と不可分なある社会の存在を示唆する行為である。例えば2014年頃までの作品は、裁縫(手縫いのオブジェクト)を通じた祖母や母とのつながり、ファッション/SNSを通じた遠くのコミュニティとのつながりの上に成立している。家族=命脈、インターネットやカルチャーを通じた人間関係といった「糸」の結節点として、片山自身が存在する。またこの時期のセルフポートレイトは、セットアップされた自室/自宅で撮影されている。
片山真理「home again」嶋臺(しまだい)ギャラリー ©︎ Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2020
これに対して2015年以降は、プライベートな空間の外で制作される場合が多い。その画期となったのが〈25 days in Tatsumachi Studio〉シリーズである。本作は、レジデンスプログラムで滞在した前橋市の竪町通り・中央通り商店街の人々との協働によって制作されている。続く〈bystander〉では瀬戸内・直島の人々の「手を借りて」オブジェクトを作り、〈On the way home〉で娘とともに再び故郷・太田市へと戻った。ここにおいて片山のセルフポートレイトは、所属する社会(人間関係、コミュニティ)を変えていく中で変成する片山自身の記録になっている。
「自分自身を見つめる」ということは個人の輪郭を際立たせることではなく、社会におけるさまざまなアクターの交点としての自己を見出すことである。彼女は制作プロセスを通して、自分を取り巻く社会を(再)発見する。公式YouTubeにアップされたサイモン・ベーカー(キュレーター)との対談の中で、彼女は自分の制作遍歴を、常に事後的な気づきとともに語っている。それは、新たな制作に入るたびに、片山自身が思いもかけない状態に変成していったことの証左であろう。いい換えれば、制作=移動は少しずつ視点/立脚点を変えていくプロセスであり、「VISION」を変えていくプロセスでもある。
解像力を最大化する努力
オマー・ヴィクター・ディオプの「Diaspora」は、アフリカ/黒人社会の歴史にフォーカスしたシリーズである。オマー自身がアフリカ出身の偉人に扮したセルフポートレイトではあるが、よく見るとサッカーに関するアイテムが必ず写り込んでいる。オマーの故郷・セネガルの“お家芸”ともいえるサッカー。それは国威発揚の手段というより、セネガル人が他国のコミュニティへと越境するための「技術」であり、ディアスポラの歴史を象徴するものである。アナクロニックな演出にも思えるが、これは作家なりの「歴史の語り方」であるとも理解できる。そして、その歴史=命脈の末端に自分自身の存在があると作家は言明する。私たちはみな、何らかのかたちで誕生以前の「過去」から影響を受けて存在していると。
オマー・ヴィクター・ディオプ「Diaspora」京都府庁旧本館 旧議場 ©︎ Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2020
越境先のコミュニティで特筆すべき生き方をしたアフリカ出身の偉人が本作のモチーフになっているのだが、偉人に関する説明がイメージのすぐ近くにあるわけではない(ハンドアウトにまとめられイメージから少し離れたところに置いてある)。ともすれば、鑑賞者はなんの説明もない状態でイメージと向かい合うことになる。作品の導線を考える過程で、あるいはキュレトリアルな次元で、付帯情報へのアクセシビリティを高めることはもちろん可能である。しかし、オマーの展示においては、敢えてそうした設計は避けられた。インタビューにおいて「展覧会をみてくださった人々が家に帰り、アフリカの偉人についてもっと詳しくGoogleで調べたりして、この話題について思い出していただけたら嬉しいです」とオマーがいうように、私たちには一歩踏み込む「努力」が課せられている。無関心を越える積極的な行為の励行こそが、本作の力点であろう。
片山のように異なる社会やコミュニティに踏み込み自己の「VISION」を変えたり、オマーのように異なる社会に向かって「VISION」の多元化や解像力の向上を促したりする試みがある。“変わること”と“見えるようになること”は、ここにおいては一致しているように思われる。しかし一方で、見えるようになるということは、ある意味「見えなくなる」ということでもあり得る。ある「VISION」を獲得した私たちは、もうそれ以前の自分に戻ることはできない。「見えるようになる」ということは必ずしも進化や拡張を意味するものではなく、不可逆的な変態とも理解できる。オルタナティブな「VISION」を獲得することで、たしかに私たちは新しく多くのものが見えるようになるが、同時に多くのものを見失ってもいるのではないか。
変化の前後、その良し悪し
福島あつしの「弁当 is Ready」は、彼の10年におよぶ弁当配達の撮影日記である。高齢化社会の到来が話題になり始めた2004年から、福島は独居老人や日中家族のいない高齢者の自宅に弁当を配達する仕事を始める。そしてある時期から、彼/彼女らを写真に撮り始めた。それぞれの住処で暮らす高齢者の姿が、展示室の壁面を埋めるように展示されていた。シミだらけの破れた羽毛ぶとんにくるまる寝姿、黄ばんだ歯と痩せた歯茎の笑顔、鼻腔カテーテルと虚ろな目。病んでいるのか、元気なのか、果たしてわからないが、ともあれ彼/彼女らは、福島の配達した弁当を食べている。
例外なく私たちは、ゆっくりと、そう遠くない死に向かっている。同時に逆行するように、食べて動き、寝て癒され、体の恒常性を保ち生きようとする。老いや病、死は平等に経験され(てい)るものであり、高齢者はその顕著なサンプルに過ぎない。ゆえに福島の写真が提起するものは「社会問題」ではなく「私自身の問題」でもあり得る。
福島は、高齢者を撮影し続ける中で「死と向き合っている感覚」が「生と向き合っている感覚」に変わっていったという。撮った写真を見返すうちに経験したというその変化は、福島にとって重要なことだったに違いない。しかしその「死と向き合っている感覚」が、果たして「生と向き合っている感覚」に至る前段階や通過点、あるいは誤認だったかといわれれば、決してそうではないだろう。福島が高齢者を前にしたときの、最初の直観はおそらく正しい。福島の写真には、死も生も同居している。写真は、生が充実する瞬間を捉え称揚する一方で、死や不在を想起させるものでもある。写真からポジティブな物語だけを抽出することは容易い。それらが突きつけてくるものは常に複雑で、多義的であり得る。
「世界を変えるには、まず自分たちの「VISION」を変えなければならない」(本祭テーマ「VISION」ステートメントより)。たしかにそうかもしれない。しかし、いっそう必要とされるべきは「VISION」を更新し続ける不断の努力であろう。いい換えればそれは、事態の複雑さや多義性の中で逡巡(ぐずぐず)する「努力」である。変化の前より後のほうが確実に正しいという道理はない。「死と向き合っている感覚」が「生と向き合っている感覚」と同じように人間理解に欠かせないように、前向きで希望に満ちた答えだけが正解とは限らない。事態は常に複雑である。きっと私たちの一視野に収まるほど、単純ではない。何かの拍子に私たちの「VISION」が拡充されたとして、その結果は「物事がよく見えるようになる」ことではないかもしれない。事態の複雑さや多義性に気づくからこそ「前より見えにくくなる」こともあるだろう。しかし、その迂回は短絡よりいくぶんマシではないか。
見えない恐怖/見えなくなってしまう恐怖
新しいテクノロジーやオルタナティブプロセスを用いた展示も、KYOTOGRAPHIE の見どころのひとつだといえる。今回でいえば、レイヨグラムを織り交ぜながら人間と自然の現在に言及するエルサ・レディエ、アンブロタイプを軸にしたインスタレーションで伝統的なものづくりの現在をルポルタージュする外山亮介、そしてオートラジオグラフィを用いた放射線のビジュアル化プロジェクトがそれに該当する。
アソシエイエッド・プログラムの「放射線像/Autograph」は、加賀谷雅道と森敏(東京大学名誉教授)による共同プロジェクトである。オートラジオグラフィという手法は、サンプルの内部あるいは外部に残留する放射性物質の分布をイメージ化する。放射能に汚染されたサンプルの部分は、画像の中で白く写る。サッカーボール、上履き、農具やヘルメットの表面に分布する放射性物質は、こびりついたカビのようにも見えるし、発光しているようにも見える。アカマツの新芽、イノシシの臓器、鳥の翼の先端や肛門付近に放射性物質の集中を見るとき、生体への少なからぬ影響が想像された。
2011年3月の福島第一原子力発電所の事故から今日のコロナウイルスの流行に至るまで、私たちは「見えない恐怖」の影響が自分に及ばないように願って生きている。しかし逆説的ではあるが、私たちは「見えない恐怖」がどんな形をしているか、すでに知っている。見えないことに耐えられず、あらゆる現象に見える形を与えようと努めているのは、私たち自身である。放射線像もまた「見えない恐怖」に形を与えた結果であり、それは相反する二つの感情と紐づいている。一つは危機感であり、もう一つは安心である。放射線像を見てしまった私たちは、少なくとも以前のようには、見えない放射線を恐れることはできない。恐怖を可視化し、危機として認識して対処し、安心を得ることで、私たちの豊かな生活は成り立っている。しかし「対処可能」と思われる範囲が拡がれば拡がるだけ、私たちは恐怖する機会を失っている。恐怖が「対処可能」な危機として「見える」ということは、対処不可能な恐怖という常にあるはずのリスクを「見失う」ということでもある。放射線像はある種の安心感を私たちに与えるが、それは恐怖が小さくなったり遠ざかっていることを意味しない。
死角の自覚、聴覚の拡張
マリー・リエスは「二つの世界を繋ぐ橋の物語」と題して、フランス国立盲学校の生徒たちのポートレイトとドキュメンタリーフィルム、そして「触る写真」を展示した。マリー・リエスと本展キュレーター天田万里奈は、視覚障害のある専門家達と二種類の「触る写真」の共同制作に取り組んだ。一つは版画家フロランス・ベルナールとのエンボス作品。もう一つはKYOTOGRAPHIEの発案により、光島貴之(アトリエみつしまSawa-Tadoriオーナー)、広瀬浩二郎(国立民族学博物館准教授)、(株)堀内カラーと制作したUV印刷による作品である。マリー・リエスの写真は、その視覚的ディティールを触知可能な凹凸に還元されることで、視覚障害者も「鑑賞」し得る写真となっていた。
とはいえ、これは視覚障害者用の展覧会ではない。むしろ明らかに晴眼者用の展示である。目が見えない人々の「視覚」を体験する装置として、この展覧会は企画されている。しかし「触る写真」に触れたところで、元の写真のビジュアルな特徴は「視覚」として再生されない。触覚情報が視覚情報にうまく変換できないことに、私は戸惑った。だが、しばらくするとその戸惑い自体が、自分の“不明”によるものだと気づく。私は、目の見えない人々は触覚から「晴眼者の視覚」を再現しているのだと思い込んでいた。点字は「文字の形態」を、点字ブロックは「道の形状」を、触る写真は「写真」を再現するためのものだと思い込んでいた。しかし、いずれも晴眼者の視覚を再現するためのものではない。目が見えない人々は、触知によって晴眼者とは違った「世界の表象」を認識している。視覚を主な受信装置として生きている自分とは、全く異なる「世界」の中で生きている人がいるということを、私は知っていた。にもかかわらず、その「世界」と自分のあいだにある溝のあまりの深さを経験するやいなや、絶望的な気分になった。「触る写真」に戸惑い、あきらめ、触るのをやめてしまった自分を省みた時、「他者」の意味を改めて理解した。私にとって他者は絶対に目視できない対象のようであり、他者にとっての私もまた彼らの死角にいる。
写真祭の公式YouTubeチャンネルに 「視覚障害のある方への手引きマニュアル」という動画がアップされている。本展会場を具体的な題材として、晴眼者が視覚障害者と鑑賞をともにする際どのような介助をすべきかが説明されている。動画のタイトルにある「手引きマニュアル」は同語反復ではない。ここでの手引きは文字通り「手を引くこと」、つまり晴眼者が自分の肘や肩を視覚障害者に差し出し、捕まってもらって一緒に歩く行為を指す。動画の中では、光島貴之と高内洋子(KYOTOGRAPHIEベニューリーダー)が手引きの実演をしている。私にとっては、初めて知ることばかりであった。
ある意味断絶された、異なる世界に生きる者どうしが、密着して歩くのが「手引き」である。晴眼者の後ろを、視覚障害者がついて歩く。晴眼者は自身の死角の中に「異世界」の存在を感知している。そして絶えず交信する。「異世界」を想像しながら、そこに届くように発信をチューニングする。晴眼者は、常に(到達不可能な)外部を想定する必要に迫られ、しかしそれでも外部へと漸近する。
写真祭のステートメントにもう一度立ち返りたい。「『VISION』は目に見えるものだけでなく、想像して見るものも意味する」。私は「自分が何も見えていないこと」を想像できるだろうか。この問いをどれだけ切実に受け止め、想像に徹することができるのだろうか。本祭がアートの名の下に問うのは、私たち一人ひとりの謙虚さであり、不断の反省をともなった生活の可能性である。
ピエール=エリィ・ド・ピブラックは「VISION」を明瞭な視点ではなく、他者への想像力をともなった見え方や感じ方であるという(リンク参照)。絶えざる想像によって常に更新されていく視野には、しかし、ある種の不明瞭さがつきまとう。オペラ座を舞台にしたシリーズ三部作を一堂に会した「In Situ」の鑑賞体験は、まさにその不明瞭さに耐える経験だった。文明開化以降、日本人が憧れ/畏れ続けた西洋世界の審美性や身体性。東洋=アジア人である私にとって最も遠くにあり、耐え難い異物感を与えるものが凝集した空間。しかし、それは決して不快なものではない。ただ「わからない」というだけで。具体的なモチーフ、精緻な描写に反して、ピブラックの作品は私にとって甚だ「不明瞭」なものである。ピブラックのいうように、そこにある種の明瞭さを求めるのではなく、不明瞭に耐える(=無限に想像していく)努力は必要かもしれない。一方それは、いつまで経っても「VISION」はぼやけたままであることを意味する。私にとってのピブラックに対する耐えがたさは、他者、共生、相互理解という言葉に対する耐えがたさである。
ピエール=エリィ・ド・ピブラック「In Situ」presented by CHANEL NEXUS HALL 京都府庁旧本館 正庁 ©︎ Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2020
「VISION」は、いまだ見えない。しかしそれでも歩いていくためには、視覚障害者が手引き者の「声」を頼るように、ただ「聴く」しかない。あるいは、他者と歩むためには「声」をかけなくてはならない。相手は自分の死角を補う「VISION」であり、自分は相手の死角を補う「VISION」であり得る。ひとまず、そう信じる。写真祭のステイトメントはこう締め括られている。
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会期 | 2020年9月19日(土)~10月18日(日) |
会場 | 京都市内各所 |
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2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。