30 September 2022

アレック・ソス インタヴュー
「歩みを止めず、高みを目指し続ける写真家の現在地」

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神奈川県

30 September 2022

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アレック・ソス インタヴュー「歩みを止めず、高みを目指し続ける写真家の現在地」 | アレック・ソス インタヴュー

10月10日(月・祝)まで、神奈川県立近代美術館 葉山で開催中のアレック・ソス Gathered Reaves」展のタイトルは、ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉(Leaves of Grass)』の一節から来ている。自由の象徴であるロードトリップ、詩的なアプローチを取り入れながらも、緻密に練られたコンセプトが軸にあるソスの作品は、写真という媒体が持つ記録的な側面、そして叙情的な表現とが両立し、多くの写真ファンを魅了してやまない。ここでは、ソスと昔から親交があり、『IMA』Vol.30 アレック・ソス特集号(2019年刊行)でもロングインタヴューを行った写真家の海原力が聞き手となり、展覧会ついて、そして写真制作にまつわるさまざまな質問をソスに聞いてみた。

文・写真=海原力

これまでとは違う「Gathered Leaves」展とは?

―「Gathered Leaves」展は、アメリカを舞台にした5つのシリーズで構成されています。どのように内容を決めたのか経緯を教えてください。

神奈川県立近代美術館 葉山での個展が決まった当初は、4つのシリーズ「Sleeping by the Mississippi」、「NIAGARA」、「Broken Manual」、「Songbook」によって構成された「Gathered Leaves」というタイトルの展示をかなり前に開催していたので、同タイトルの展示を再び行うとは思ってもいませんでした。美術館という大きな空間で何を展示するか模索する中で、新型コロナウイルス感染症が広まり、さまざまな変更を強いられました。その間に完成した新作「A Pound of Pictures」が「Gathered Leaves」のテーマと合っていたので、新作を追加したかたちで展示することにしたのです。これまでの作品をただ集めただけの回顧展ではなく、首尾一貫したテーマのある展示をすることが重要なので満足しています。

―複数のシリーズをひとつの展示として一堂に並べ、つなげる作業から、何らかの新しい発見はありましたか?

処女作「Sleeping by the Mississippi」には、まだ何も知らず、とにかく色々なことを吸収している段階の自分が表れています。対して「A Pound of Pictures」は、過去に制作した作品すべてを振り返るような作品です。また同時に、私がまだ若い頃に持っていた感覚に触れようと試みた、そんな作品でもあります。まるで大きな円を描くように作品同士はつながっています。

―今回の展示は、日本で初めての大規模な個展になります。写真集でしかあなたの作品に触れたことのない方も少なくないと思います。『Niagara』の大きなサイズのプリントを含め、実際に展示を見ることで新たな発見をする人たちも多いのではないでしょうか?

確かに、これまでも初めて私のプリント作品を見た方に驚かれたことは少なくありません。そのたびに、多くの人は携帯電話やコンピューターの画面、写真集の中だけで私の作品を見ていることに気付かされます。私はよく音楽に例えるのですが、 スクリーン上で見るのは“ストリーミング”、写真集は“アルバム”、展覧会は“コンサート”に近い。コンサートでは、生のミュージシャンが目の前にいて、音も大きく、ベースを体で感じることが出来ますよね。展示も同じように感じてもらえると嬉しいです。

《チャールズ、ミネソタ州ヴァーサ》〈Sleeping by the Mississippi〉より 2002年 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin

《ふたつのタオル》 〈NIAGARA〉より 2002年 ローク・ガレリー蔵 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin

《2008_08zl0047》〈Broken Manual〉より 2008年 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin

《ビル.オハイオ州サンダスキー》〈Songbook〉より 2012年 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin

《スチュアート.ペンシルベニア州ピッツバーグ》〈A Pound of Pictures〉より 2021年 ©Alec Soth, courtesy LOOCK Galerie, Berlin


失敗を乗り越えて生まれた「A Pound of Pictures」

 

―「A Pound of Pictures」は、どのようにプロジェクトとして発展したのでしょうか?

プロジェクトをスタートした当初、第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの棺を載せた葬送列車の跡を辿るという明確なコンセプトがありました。その少し前までは、トランプ政権下のアメリカを撮りたいと思えず、自国で作品を作っていなかったのですが、あるとき「やはり現在この国で何が起こっているのかに向き合わなくてはいけない」と思い立ち、このアイデアが浮かびました。しかしながら、そのアイデアを描き出すことに固執してしまい、行き詰まったのです。いま振り返ると、作品づくりを始める前から特定のアイデアを持ってしまうとよくないことは分かっていたはずなのですが……。そこには驚きに満ちた発見はなく、落ち込むばかりで、途中で投げ出してしまおうかとまで思い悩みました。ですが途中から、意気消沈してばかりいないで、何か別のことを始めようと気持ちを切り替えました。無理矢理何かを作ろうとせずリラックスしたら、写真を始めたばかりの頃の自分に、自分の原点に触れたいと考えるようになりました。

―「A Pound of Pictures」の写真集でも、制作途中で当初のコンセプトを断念したときのことを「lifeless」と表現しています。時間もお金もかけて制作しても、作品として成立しなければ、見極めて諦めなければならないのはとても辛いことですが、作家として重要な決断かもしれません。あなたにとって「失敗」とは?

私は人の弱さに興味があり、人は失敗を経験したとき、傷つき易く、そして脆い。そうは分かっていても、自分の失敗となるととても辛いですよね。これまでにも多くの失敗を経験したので、大体の場合にはそれを克服出来ると分かっているのですが、今回の失敗は本当に心配になりました。スポーツ選手がよく陥るイップスという症状が近いかもしれません。失敗のイメージが頭の中に定着してしまい、思うようなパフォーマンスができなくなって選手生命が終わってしまったケースもあるので、私もそうなるのではないかという恐怖を抱えていました。

制作途中、落ち込みながら家に戻ろうとしていたときに、急遽メンフィスに向かうことにしました。メンフィスに行くといつも良いことが起こるので。そこで私はウィリアム・エグルストンの息子、ウィンストンに会って、「あなたの父親は常に自信に満ちあふれていますか?」と尋ねると、「その通り」という答えが返ってきました。「自らを疑うことなど一切ありえない人物だ」と。私はその真逆で、いつも自分を疑うタイプの人間です。そこで私は、頭の中にあるネガティブなイメージを払拭するために、自分がウィリアム・エグルストンになったフリをしたのです。自信満々なフリをして、細かいことは気にしないようにしたら、実際それが効いたんです。もちろんずっとそれを続けた訳ではなく、最初の内だけですけどね。

私は、インタヴューの撮影で小説家とお会いする機会があるのですが、そのときに新しい小説を書き始めるときは、毎回同じように難しいといっていた言葉をよく思い出します。私も「自分はもうエキスパートで、いくつも作品を作っているんだから大丈夫」と思って新しい作品を撮りに出かけるけど、やはりいつも決まって難しいですね。

―「A Pound of Pictures」は、ご自身が撮影した写真とファウンドフォトで構成されています。コレクターとしての一面が垣間見れたのが興味深いです。相当数の写真集コレクションもお持ちですが、収集も作家としての作業の一部ととらえていますか?

収集は、写真制作にとても似ていると思います。自分自身をコレクターと見なさないのは、写真制作に取って代わって、写真収集に集中してしまうことを心配しているからかもしれません。でも私はマーティン・パーのようにベスト写真集を全部集める気はありません。ただ単に自分が興味のある写真集を集めています。「A Pound of Pictures」でヴァナキュラー写真を集めていた理由は、単純に楽しかったからです。収集することも写真制作も、集めるという行為が本当に楽しくて、所有すること自体は重要ではない。量が増え過ぎるともう目を通すこともなくなってしまいますし。写真の真の魅力は、写真を他者にとっても意味があるようにする方法を探ることなのです。

―本展では「A Pound of Pictures」を額装せず、フチなしのプリントをピンで直接壁に貼っています。変ないい方かもしれませんが、より写真的と受け取ることも出来ます。この展示方法に決めた理由を教えてください。

「A pound of Pictures」というタイトルには、「写真の重さ」や「たくさん積み上げられた写真」という意味も込められているので、写真の物質性を示すことは重要でした。特別な方法で額装する方法もありますが、非常に費用がかかります。また、写真表現にとって、複数の写真を使って文脈を作り上げる作業は重要です。写真集はサイズが一定なので、文脈を比較的コントロールしやすいですが、展示は大きく異なります。予算の問題や文脈を始め、そのほか展示を行う上で付随するさまざまな制約の中でベストを求めなくてはいけません。ただ、その中で面白いことも起こります。今回は、展示会場の最後の部屋の窓を開け、自然光を取り込むことにしました。窓自体が素晴らしかったのも理由ですが、「A Pound of Pictures」のプリントは展示終了後に破棄されるので、自然光がプリントに当たっても問題ないと判断しました。

―大きなプリントの間にある小さなヴァナキュラー写真のまわりにも、まるでそれが大きなプリントであるかのように十分な余白が取られています。写真と写真との間にある物理的な距離は、写真集でもテキストでも表現出来ない展示ならではの領域だと思います。小さな写真は、近づかないと見えないですし、後ろに下がらないとまわりの写真との関係性は見えません。配置や間の取り方によって、観る者は積極的に作品全体へと関わるのかもしれません。展示における写真同士の距離をどのようにとらえていますか?

キャリア初期は、写真集で見る写真しか知りませんでした。もちろん展示も観には行っていましたが、たくさん観ていたわけではありません。初めて「Sleeping by the Mississippi」の展示を行なったとき、私は自分が何をしているのかよくわかっていませんでした。今回も同作を敢えてそのときと同じように展示しています。いまではもっと視覚的に興味深い方法で展示をすることもできますが、私の原点をお見せしたかったんです。次の「Niagara」というシリーズで、大きなプリントを使うようになったのですが、それ以外の部分はあまり大きな変化はありませんね。「Broken Manual」では、プリントのサイズに変化を加えて、鑑賞者が近寄ったり後ろに下がったりという動きが生まれるようにしました。展示空間の作り方は、空間自体に大きく委ねられるので、キュレーターや展示のエキスパートである他の方たちのアドバイスを受けながら、ベストの方法を探ります。観に来てくれた方が、一枚一枚の写真に集中できるように気を付けてますね。


外と内の世界を行き来する写真表現

―「A Pound of Pictures」には、あなた自身が作品に表れていると思います。以前あなたはスティーブン・ショアとロバート・フランクの二人を例に挙げて、自分の写真は外の世界へと向かっているようだが実際は自らの内側にもレンズを向けており、内省的な、よりフランクに近いアーティストであると話されていました。本作では「Broken Manual」のレスター・B・モリソン(作品内でソスが用いた架空のライター名)とは異なる形で自らの作品へと関わり、あなた自身が主人公であることを全面的に受け入れているような印象も受けます。ロードトリップの作品を制作していく中で、過去から現在にかけて、そういった変化は起こったのでしょうか?

確かに今回の作品はより私自身のことが表れていますが、私はちょうどその中間にあろうとしています。「Broken Manual」が私自身についての作品だということは明確だったと思います。一方で「Sleeping by the Mississippi」は、アメリカに関する作品だという印象をお持ちの方が多いですが、私にとっては「内なる旅」を表す作品なのです。「A Pound of Pictures」のベクトルは、どちらかといえば、「内なる旅」へと向いています。でも「Songbook」には、一切「内なる旅」はない。思い切り外に向かって撮られた作品です。これはスペクトラムのようなもので、私の両方の領域を行き来することが好きなのです。

― 「A Pound of Pictures」の写真集に書かれている「Through the lens of my Honda Odyssey, I watch light bounce off a million surface(ホンダ・オデッセイのレンズを通して、100万面の光の跳ね返りを見る)」という文章が印象的で、カメラ自体がラテン語で「部屋」を意味することを連想させます。あなたの愛車であるホンダ・オデッセイは、ロードトリップ中にカメラと部屋と化す。それは外の世界との直接的な関係性をもちながら、一方で、外の世界から自らを守り隔離するといった興味深い矛盾を含むと思います。車中から見える外の世界について話していただけますか?

私にとって車とは、外部を遮断するセイフティーバブルです。歩きながら撮影する写真家たちは、外の世界に出て撮影をしますよね。車中にいる私の場合は、自分の内側に籠りながら外の世界にいるので、つながりと遮断の両方が同時にある状態です。私の目の前には、ガラス一枚の隔たりがある。私にとって写真という媒体の持つ魅力は、このバリア(防壁)なのかもしれません。それは良いことであり、良くないことでもある。でも、それが私のやり方だと受け容れるようにしています。

―今回「Songbook」を除いた4つの作品が、あなたの代名詞ともいえる8×10インチの大判カメラで撮影されています。このカメラのピントグラスは、その大きさゆえに画面全体を把握するのが難しい。カメラの違いは、カメラを通して「見る」行為に特徴を与えますが、どのような感覚で8×10を使って撮影されていますか?

私が8×10を使う理由は、画質の良さや情報量の多さではなく、目の前の空間を平面化するその特有な変換能力にあります。そして300mmのレンズを8×10と組み合わせることで、空間に独特の奥行きを与えられるのです。デジタルカメラでこれが出来るようになれば、そちらを使用します。ふたつ目の理由はピントグラスです。ちなみに、見える像が上下反転していること自体は好きではありません(笑)。私はピントグラスを見るのがすごく好きで、まるでそれは本展のメインビジュアルとして使用している「White Bear Lake, Minnesota」に写るイーゼルの上に置かれた絵のようだと思います。絵を描くときのように、後ろに下がって、少し考えてみたりする。それから近付いて、覗き込んで、フォーカスを合わせる。そしてまた暗幕を脱いで、物を動かしたり、被写体と話したりして、またカメラに戻る作業を繰り返す。そうすることで、被写体と一体になって写真を作っているように感じます。

―作品を写真集や展覧会という形でアウトプットするまでのプロセスで、多くの重要な決断を下していると思います。あなたは、緻密に練られたコンセプトで計画的に作品を作るアーティストと伝えられることも多いですが、一方で無意識の流れ(Stream of Consciousness)や詩的なアプローチなど、輪郭を見極めるのが難しい要素も制作に積極的に取り込まれています。制作において、どれくらい無意識の領域が重要でしょうか?

とても重要ですね。この領域が、制作において大切なプロセスである写真同士の関係性を生むシステムや構造をかたちづくります。全くルールのない状態で制作するのは私にとって有効ではなく、例えば何の当てもなくドライブに出かけて写真を撮るのは私には無理です。何を撮影すべきか分からなくなってしまう。だから、まずは作品の構造を作ることが必要不可欠なのです。その構造があるからこそ、私は写真同士を関連付けていったり、偶然何かを発見をしたりすることができます。探し物を見つけようとしている途中で何かを発見すると、そこには感動や興奮があります。例えば、画家がある程度絵の具の色数と筆を限定してから描き始めるのにも似ているかもしれません。そうやって制作を続けていると、段々と自分がどんな作品を作っているかが見えてきます。

―写真は時間という要素がいろいろな形で深く関わっている媒体ですが、時間についての考えを聞かせてください。

「A Pound of Pictures」には、とりわけ死の要素が多く含まれています。年齢を重ねる度に、写真が私に死を連想させるようになりました。大きな矛盾がそこにはあるのですが、私が写真を好きな理由は撮影している時にいまを生きていると感じられること。でも同時に写真には過去と少しの死の要素も含まれている。それらが隣り合わせに存在していることにも興味があります。写真自体も永久に残るモノではありませんよね。「A Pound of Pictures」のファウンドフォトも、劣化していたり、傷がついていたりします。

―特にあなたのロードトリップ作品からは、寂しさや孤独を感じ取ることがあります。それは、あなたが写真に収めた世界によってもたらされるのか? それともあなた自身から伝わって来るのか? もしくは写真という媒体が、実は孤独と近い距離にあるのかもしれません。もし孤独があなたにとって意味のある要素であるならば、そのことについて話していただけますか?

私は、多くの写真が孤独と関係していると思います。また、先ほど話したように、写真からは一枚の車のガラスが自分と外の世界を切り離すような感覚も覚えます。写真が孤独と現実世界からの分離を表すのに非常に適した媒体であることに惹かれています。そういえば、インタビュー前に美術館の下にある浜辺で太宰治の『人間失格』を読んでいたんです。夏の浜辺で読む小説ではないかもしれないですね(笑)。周りには水着姿の人たちがバレーボールなどをしながら楽しんでいる中で、日本人よりも孤独を愛する外国人が太宰を読んでいる。私は、つながることと分離の両方に興味があるので、このシーンをふと思い出しました。

―写真の記録的要素と詩的要素の調和を表す言葉として、ウォーカー・エヴァンスは「Lyric Documentary(抒情的ドキュメンタリー)」や「Documentary Style(ドキュメンタリー風)」を使い、写真の持つ特性を見事に表現しました。1964年のイェール大学で行われた講義でもそのコンセプトについて「一見何でもないようなことに対しても、興味深く、ある意味、角度をつけたアプローチの出来る人には、私が呼ぶところの『Lyric Documentary』の心構えがある」と話しています。現在でも多くの写真家がこのコンセプトについて考え、共感を覚えています。あなたはこのコンセプトをどうとらえていますか?

私はとりわけ「Documentary Style」という言葉をよく使っています。例えば、文学の世界でフィクションというジャンルがありますよね。そこには現実の世界のような登場人物がいて、普通に人生を送っている人たちがいる。でもそれをフィクションと呼ぶことで、会話を工夫したりすることでさまざまな要素を詰め込むことが可能になる。写真表現が面白いのは、フィクションとノンフィクション、どちらの領域にも収まり切らない中間の領域にある点です。私が面白いと感じるのは、先ほど「外の世界」と「内の世界」の両方を受け入れるという話をしたのと同じことですが、二つの異なる領域の間でバランスを見つけることですね。

タイトル

「アレック・ソス Gathered Leaves」

会期

2022年6月25日(土)~10月10日(月・祝)

会場

神奈川県立近代美術館 葉山(神奈川県)

時間

9:30~17:00(入館は閉館の30分前まで)

休館日

月曜(10月10日を除く)

URL

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2022-alec-soth

アレック・ソス|Alec Soth
1969年アメリカ、ミネソタ州ミネアポリス生まれ。同地を拠点に活動し、2004年刊行の『Sleeping by the Mississippi』をはじめ25冊以上の写真集を発表。ジュ・ド・ポーム美術館(パリ、2008年)、ウォーカー・アート・センター(ミネアポリス、2010年)での個展ほか各国での展覧会多数。レーベル「Little Brown Mushroom(LBM)」を主宰し、出版やワークショップ等の活動も行う。 2004年に国際写真家集団マグナム・フォトへ参加、2008年より正会員。

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