27 July 2018

Kei Wakabayashi

シャッタード 散り散りになった私

27 July 2018

Share

若林恵「シャッタード 散り散りになった私」 | Harit Srikhao

Harit Srikhao

7月28日(土)にamana squareで開催が予定されているトークイベント「Trialog」は、『IMA』Vol.24「ミレニアル世代の“イット”フォトグラファーたち」特集で紹介した写真家・パブリッシャーを国内外から招いて、三者対話型のトークが繰り広げられる。

人種、家族、ジェンダー、宗教、紛争、移民、アイデンティティ、ダイバーシティ、さらにはテクノロジーの発展がもたらした功罪―既存の価値観が大きく揺らぐ時代に、前世紀から私たちが抱えてきた問題から新たに勃発した問題まで「ミレニアルズ」と呼ばれる世代は真っ向から直面している。

「ヴィジョナリー・ミレニアルズ」と題して、彼らの声に耳を傾けるセッションを前に、Trialogの主宰者でもある『WIRED』前編集長の若林恵が「ダイバーシティ」というキーワードを軸に、ミレニアルズたちが向き合う表現の現在形を考察したテキストを、本誌からの転載の形で再録する。

文=若林恵

極度に不安定な世界を生きているのは何も若者だけではない。これまでの「私」を支えてきたはずの制度、国家であったり、それに紐づく行政だったり、学校や会社といったものだったりが、あんまり「私」を支えてくれるものではなくなり、それがインターネット、SNS、AIといったデジタルテクノロジーの後押しを受けることで、より不安定なものになっていることは、ここ日本ですら誰しもが感じていることではあるはずだ。「人生」はかつてのように計画したり設計したりできるものではなくなり、人は錨いかりを失ったままただ海の上を漂うほかすべがない。

そうした中、国家や宗教といったものに「錨」としての役割を再び求める人も増えてくる。それは世界的で、かつ世代を超えた問題としてすべての「私たち」を直撃しているが、その不安定さを真っ向から引き受けなくてはならない世代として、「ミレニアルズ」や、それに続く「Gen Z」は、おそらく存在している。剥き身で、なんの装備もなく、その液状化した世界に漕ぎ出す世代は、その自由を最も享受できる世代であるがゆえに「個人主義的」だともいわれるが、一方で、インターネットやSNSによってより逼塞(ひっそく)していく世界の不安を最も鋭敏に感じている世代でもあろう。その世代の作家による作品が「アイデンティティ」、すなわち「漂流する私」を扱うことになるのは必然にはちがいない。

もちろん近代以降のアートは、多かれ少なかれ「アイデンティティ」を問題としてきたことを思えば、「アイデンティティ」というテーマ自体なんら新しいものではないようにも思える。けれどもデジタルテクノロジーがもたらした変革は、すでにして近代世界がその土台として仮想してきた「自我」や「個」といった枠組みを否が応でも変えていく。かつてジル・ドゥルーズが予見したように、人はますます「分人」化し「アイデンティティ」は、ますますあてどないものとなっていく。インターネットがもたらした「分散」の力は、「私」という領域におよんで、人の存在を散り散りに分散化してしまう。その散り散りになった断片を拾い集め、なんらかの意味を探ること。ミレニアル以降のアーティストの作品の焦点は、おそらくそんなところにある。

人種とは何か(マイルズ・ロフティン「Hooded」)。国家とは何か(マリア・グルズデヴァ「Borders of Russia」)。政治とは何か(ハリット・スリッカオ「Whitewash」)。ジェンダーや家族とは何か(アルーナ・カネヴァシーニ「 Villa Argent ina」)。テクノロジーとは何か(アレクサンドラ・ハンツ「History of Desire」)。それぞれの作品の背後に控えているのは極端なまでに大きなテーマだが、そこには声高な告発があるわけでも、あからさまな社会批判があるわけでも決してない。彼らは「正義」や「イデオロギー」を、そこで語るわけではない。といって、これらのビッグイシューをただ浅瀬においてぴちゃぴちゃと弄んでいるわけでもない。

何が本当で何がそうでないかが不分明な「ポスト・トゥルース」の時代において、リアリティというものは自明のものとしてあるわけではない。シャッターを切ればそこに真実が写るとナイーブに信じていられるほど、彼らはうぶではないだろうし、紋切り型に「インスタ世代」などとくくることが許されるのであれば、ネットにおける画像伝達のダイナミクスをより熟知しているのは、むしろ彼らだろう。ときに、写真をあくまで画像のように扱ったり、あたかもフェイクであるかのように操作したり、撮影したものとファウンドフォトを含めたドキュメントを等価に並べたりと、その表現の手口は、むしろ複雑にして巧妙で、ときに自己言及的でもある。

写真のリアリティというもの自体に疑問が付されている世界にあって、写真になんらかのリアリティを宿らせることは可能なのだろうか、というテーマが、これらの作品の裏側に走っているのを見て取ることもできる。別のいい方をするなら、これらの作品は、写真という表現媒体の「アイデンティティ・クライシス」をも引き受けざるを得ない。「写真」という表現形式もまた、デジタルテクノロジーの分散力によって引きちぎられ、散り散りにさせられてしまっているのだ。

それにしても、ミレニアルズによるこれらのアート作品にみられる落ち着きや内省ときたらどうだろう。それは「いまどきの若者は」と十把一からげに語ってしまいたがる大人たちの予断を、実に心地よく裏切ってくれる。そこには、散り散りになった何かを慎重な手つきで拾い集めようとする地道な営為がある。もちろん、その背後には「大人たち」よりもはるかに切迫した焦燥はあるに違いない。けれども、彼らは性急な答えこそが罠であるとよく知っている。答えではなく、むしろ、正しい問いを、そこに探しているように見えるのだ。

Maria Gruzdeva

Arunà Canevascini

Myles Loftin

Alexandra Hunts / History of Desire, 2017 Fine art print in custom painted frame, glass acrylics, 146 × 182 cm

タイトル

trialog vol.2「ヴィジョナリー・ミレニアルズ」

日程

2018年7月28日(土)

会場

amana square(東京都)

時間

14:00~18:00(13:30~受付開始)
*3つのSESSIONと懇親会を開催予定、追加登壇者含めプログラムの詳細は後日公開

料金

【一般】3,000円【学生割引】1,500円

定員

70名(一般50名/学生20名)

URL

https://trialog-project.com/

申し込み

https://trialog02.peatix.com/

若林恵|Kei Wakabayashi
1971年生まれ。編集者・ライター。ロンドン、ニューヨークで幼少期を過ごす。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業後、平凡社に入社し、月刊『太陽』を担当。2000年にフリー編集者として独立し、以後、雑誌、書籍、展覧会の図録などの編集を多数手がける。音楽ジャーナリストとしても活動。2012年に『WIRED』日本版編集長に就任。2017年に退任し、2018年に黒鳥社を設立。今年、初の著書『さよなら未来 エディターズ・クロニクル 2010-2017』が岩波書店より刊行された。

2021年3月以前の価格表記は税抜き表示のものがあります。予めご了承ください。

Share

Share

SNS